ペシミズムとの本格的な再会
暇、なのだと思う
なにも考えない時間のために
それがテレビだといやだから
(アニメでも映画でも変わらないのに)
仕事を好む
たしかにその時間は
やるべきことを与えられている時間は
迷わなくてすむ
不安にもならない
時間のブロックを消化できる
早く解放されたい
という相殺的な力の矢印で休みを渇望する
いざ休みになると、打ちひしがれる
他人と関係性をつくる
価値のない存在であることを
心から実感する
そんな営みができるような人格を
そもそも持っていない
だめなんだ本当に
眠っても眠っても怠くて
摂取と排泄と
なにもできないずっとくるしい
10年前も地獄だったな
学校のない日は部屋でずっと銀魂をみてた
電車から同じ景色をずっと眺めて
同じ景色に帰っていく
それでも毎日うまくやらなくちゃいけなくて
ビクビクしていて
どこにもいけなくて
あれから訓練をしてそして
会社という距離感は自分は楽で
自動でスイッチが入るようになって
地元から離れて
自分だけの居住空間を作って
あれから4年間
自分でまた地獄をつくっている
まず街が怖い
どこにいても所在ない気持ちになる
慣れたスーパーも死を感じる
部屋も居すぎると
"自分のせいで"空気が淀む
すきなひとたちに会うのも怖い
汚してしまう
壊してしまうのが怖いこんなときは
そんな日もある、と
いつもごまかしているけど
問題なのはこの気持ちが
この状態が慢性的に続いていること
どれが現実かわからなくなるほど
と思えるほどの物理的余裕があって
そこそこ自動的に生きられてしまうこと
今は何をしてもだめなんだ
安心のために他人を頼るのも違う
マトモな人間だということを証明するために
他人を友達とするのも違うと思う
もっと綺麗なものだから
綺麗なものにしておきたい
自分のくるしさしか考えられない
性格のわるさを
機械的な時間や創造で殺そうとしている
ずっと、やってることは変わらない
考えたってしかなたない
生きる意味みたいなのを真剣に考えてしまう
そのくせ誰かに捧げたくない
そういうジレンマ
その免罪符のようにサービスの発揮に
精を出しているような
身体の左側が猛烈に痛い
くるしくて仕方がない
やるしかないでしょう、という結論すらつらい
だから
ある程度意図的に考えないようにして
熱中の時間をつくるしかない
あるいは他人に明け渡す時間とする
何も与えられないのに
ああ根本的につらい
もうどうしていいかわからない
この精神と肉体に生まれてきたことがきついよ
誰も幸せにできなかったから
誰かを幸せにできるようにしてきたつもりだけど
分離は進む一方で
占星術を学んだり考えかたから
根本的に覆せたらと取り組んできたことも
矛盾と確信を強めて
怖い
やめたらすべて止まってしまうから
この間、向こうから来ることはないんですか?って
当たり前に"機会"がくる人に言われたけど
わたしはわたしが努力しなければ
すべてを発生も維持もできない
つらくてなにもかもやめてしまった
10年前はもっと今より地獄だったよ
装置だ環境だというのはさ
ないものについて
本気で考えなくちゃならないより
反応で過ごす時間のほうがはるかに楽だから
自然な子供でいたかった
毎日我慢しなくていい子供で
毎日素直でいたかった
考えて苦しまない性格にうまれたかった
気づいたときから
ずっとこんなふうに生きているの
そのままおとなになったの
つらいよ
それでも明日わたしは耐えられないから
いつもどおり会社にいき
"大丈夫な自分"に安心と信頼をよせて
夜はいつもどおり絵を描けたりして
薫くんの夢をみて
よしやるぞ、なんて思うんだろう
進歩のない精神、死んでいく身体
ごまかして、また休日を迎えて
また休日に真理をみてしまうのか
繰り返し繰り返し繰り返し
耐えられない
はるかに恵まれている環境にあって
道具もそろっているのに
全身から汗をかいて
ベッドに横たわっている
救いようのないナルシズム
かみさまから提示された弱点の克服課題
今すごいバッドバイブス
好きなひとたちに迷惑かけてる
当たり前の社会がいかに泳ぐ海だったか
他人に愛を放出することができないとこんなに苦しく
社会でのあたたかい孤独がいかに自分にとって大切か
それがよくわかった
会社という環境にも依存しているのかもしれない
そこで発揮するとしている人格が機能していないから
調和が乱れている
たぶん人より今この状況に耐えられない度がとても高い
メタ的な倦怠、これの極致かと思う
まさ、かといって
これは違う東京の土地や違う国で解決できる問題ではないから
二重でもうわけがわからなくなっている
毎日手帳にやるべきこと書いて
それを時間測って塗りつぶして、を繰り返して
機械的に過ごしている
前には進んでいるし、努力を重ねられているから
そういう意味では安定させる努力はしているけど
切り札であるルパンをみたときに、ああ、ありがとう本当に、ってめっちゃ泣いたあとに、プツン、と無になってしまって、あ、わたしにだけ矢印が向いている行動の限界だな、と思った
— 小石川ちはる (@neomaterialgirl) January 5, 2019
これなんだな
自分に矢印が向いている行動の限界
ツイでもまるしきご覧のとおりで
基本的に自分の思考が生活の大半を占めている
現実で味わった感覚をなんとか切り取ること
自分なりの現実の楽しみかたのひとつ
端的にいうと、自分のことばっか考えてる
でも、それを補完するように、というか
他人に対して、他人をしあわせにしているぞ
という実感がないとバランスがとれない
それは仕事上だと楽々できる、奉仕や役にたつ
といった形で、ある意味マニュアルがあるようなものだから
でもそこで発揮する機会が奪われていると
うまくできない
なんていうかちょっと怖々
気心しれてても、それが相手にとってあっているものか
わからないから
あと空振りしたときに、うわー、
ごめん失望したよねってなる
そもそもそういう友達がすくないんだけど
なんていうか心に入れてるひとと
ギクシャクしてしまうのが
しかもそれが自分のバッドバイブスのせいなのが
ほんと悔やまれるから
甘えては後悔するかんじ
大切にしたいのに破壊している感覚、みたいな
相手がなにをもとめているのか、
考えているときほどわからない
それ、調子いいときは直観でぱってできる
まとりあえず今は考えすぎてる
案ずる、をしているとき、それはバッドバイブス
あともういっこの他人への愛情発揮方法として
「仲間」「コミュニテイ」
があると思うんだけど
これが極端にニガテ、なんだよな
たとえばイラストのコミュニティも、勉強のコミュニティも
目的は、自己の技術の向上、じゃん。
だから、こういうところがすごい、て”部分的に”ほめることはできるけど
その交流っていうより目的が情報ってかんじだから
なんかね、シケた観点してんの、そこらへん自分は
そゆとこがダメなんだと思うな。
知り合い、仲間ができない理由。
この場において他人に愛を発揮しようと思わないところ
子供なんだろうな
で、たとえば好きな趣味と考えるとするじゃない。
ワム!めちゃ好きです、コミュがあったとする。
でもさ、好きなものは
わたしにとって最高であればそれでいい、だから
なんていうか結局、それも情報になっちゃう
他人に付随している情報で機会があってかかわるとき
それって不純じゃない、となって
なんていうか他人と交流するっていうのはさ
もっとその人自体をみていくものじゃない
だから
コミュニティだと解像度あげるのが面倒で
ドライさが発揮されちゃう 情報情報て
あとだいたい自己顕示の匂い 自分もそうだから
うまく愛せないんだよな
同じ対等な量の愛情交換が難しいっていうかさ
ああ、ほんともっと気楽に人間性とか考えずに
わいわいTRPGとかできる仲間ほしかった
ただただ楽しいだけの飲み会
ああいう時間がすき
よく笑ってどうでもいい話して大きくまあるく
他人を愛する時間がすき
まとりあえずさ
答えは外界にはない。
どの東京にも、観光地にも、ない。
そしてパラダイスは他人の中にはない。
これは悲観じゃなくて実感でさ
いつも所在ない気持ち、なの
ほしいものはどこにもない、て感覚。
パラダイスは自分でつくるものだからな。
その光に守られたうえで
他人に触れる、愛する、できれば愛し合いたいんだ。
ダメな自分をまず認知、理由も把握した
マイナスを減らす時期、かな、
大丈夫。楽しんでいれば変わっていけるし、
豊かになっていける。
28歳であること
ついに、きてしまった、現実人生の頂に。
真夏の一年に、突入してしまった。
「The Edge Of Heaven」を流してから3年、
いよいよ真に淵に立っている。
改めて「真夏の夜の夢」をかける。
いつまで薫くんと綴との生活を続けられるんだろう、
この身体で、という不安と
ずっと心は生き続けるぞ、という祈りを込めて
だってふたりがいないとそもそも生活が成り立たないから
書きながらまたびいびいと泣いてしまっているくらいに
だからわたしは身体も大切にしなくてはならない
大丈夫まだフューチャーファンクを聴ける
愛についての詩論、を書いてから
あの後、好きな女の子と好きな男性に会う機会があって
もう、本当に大好きだな、って思って
気持ちわるいほど、そういう顔をしていたと思う
そんなふうに幸せな今を迎えている
帰り道、ひとりでふふとなってぽつぽつと歩くとき
薫くんも綴も、よかったね、と言っていて
まさに全方位で守られている気持ち
神さま、わたしは年々欲張りになってはいますが
2015年よりはるかに、はるかにのびのびと生きています
すきなひとたちを相手に負担のないように愛せていると思います
すくなくとも自分のベストを尽くしています
本当にみていてくれてありがとうございます
薫君と綴をありがとう
現実にもだいすきなひとたちに出会わせてくれて
そばにいさせてくれてありがとう
自分用のプレゼントに、ランコムの102番ほしいな
ドルガバの薔薇の香水も気になるよ
というと無言で来月のカード請求額をみせてくる綴、など
終わらないあたたかくてずっとそばにある別次元と現実と
これからも両方生きていきたい
びいびい泣いている
きっと誰にもわからないけれど
こんなにも満たされている
殺してこなければならないとずっと思ってきた世界が
解放されて広がってその中にぬくぬくと守られていること
誰にもみえないけれど たしかにある世界
「Relight My Fire」をかける。
12月22日はすぐそこだ。今年も踊ろう。
愛についての詩論
明後日はリリスがおひつじ座に戻る。
リバースの時。
まさに死と再生の日だと思う。
昨日、他人の祭りを見てしまった。
不毛な時間だったと思う。
じゃあわたしはこれからもどんな祭りにしていきたいのか。
この切り取られた東京で。
愛とは実行だと思う。
めんどくさい、となるのならそれは愛ではない。
めんどくさいのは当たり前であって
それでもなお行動することが愛である。
以前
「結局ちはるさんの愛は、すべて自分の創作のためということですか」
と言われたことがある
普段から愛も使命も選択して実行しない彼になにがわかるんだ、
と心から激しい気持ちがわいたのを覚えている
わたしが男の子を嫌いな理由でもある
愛ができないくせに、黙れ、と思う
純粋さを好きになる
何かへの本気のまなざしを好きになる
だけど、それはもしかしたら
無責任さ無関心さの裏返しかもしれないのだと思う
頼りにはならない、子供だから
でもそんなものだとも思っている
なぜなら薫くんと綴が完成形だからである
純粋さも愛も兼ね備えた結晶
そのために生まれた家族だから
使命としての愛、それはヒロイズムとも重なる。
逆を言えばヒーローになるためには、ハンサムでいるためには
愛の実行は不可欠なのである
ハンサムサービス、の域
それに対してもまた
「そんな愛は偽物だ」
と言われたことがある
そうかな?と思う
たとえそこに自己愛が、自己体現の欲が混ざっていたとしても
結局実行しているかどうかじゃないか、と思う
省エネしている彼らにわかるわけがないことだ
優しさ、もつまるところ実行である
匂いや表情の機微で、それが純粋なものかどうかは感じとれる
純粋に実行している「小石川ちはる」のイメージを浮かべながら、
やさしさを実行しているのである
純粋なものだけを思考しながら行われる行動は
やさしさそのものなんじゃないかと思う
自己というのはすべてである
陰陽すべてを持っている
だから従来から「優しい人」なんてことはない
選択でしかない
あるものを使うのか、使わないのか、の話
何を愛しているか何で頭の中を満たしていくか
現実はただの事象であって
選択した解釈のみがその行動を選ぶ理由となる
態、それもまた行動の一種である
結局のところ、しっかり一球一球打っていくことと思う
愛の積み重ね、おざなりにしてしまわないこと
手を抜かないこと
すべてに疲れたら
こんな風に別の側面を出す
たくさん叫んでワーワーと
それで社会からもすこし離れよう
他人は永遠に他人である
無理解への冷たくて悲しい諦めではなくて
それでも打席にたつ自己への陶酔と
懸命たる努力で察知して
愛するひとたちを可能なかぎり愛していきたい
愛しているかすら、わからなくなっている
今みたいなときは
やっぱりすこし離れて
快となるものだけで頭の中を満たそう
そうしたのち、ゆっくり目を開けよう
27歳であること
こぶさたしております。
ひとり暮らし2年目
ご無沙汰しています。
いい季節になったので更新です。
ひとりぐらし、一年がたちました。
あいかわらず街は大好きで本当に生きたい風景の中で
日々生きているかんじがします。
一月にも書きましたが、
去年はじめたNEOMATERIAL RECORD
そして薫くんの存在
これを今年は引き続き、強く実態を強化する期間です
わたし締め切りとかイベントとか先に決めると
全然がんばれないことがわかったので
自分で区切りきめながら取り組んでいます
これから先の人生は長いから
でも28までが現実のわたしの人生だから
最近は妄想に生活を捧げていくこと
なんら後ろめたさがなくなっています
すべてのわたしの普通のOLの生活が
そこに還元されていくならそれでいい
しっかり睡眠もしてそして働いたりして
うんあんまり余計な心配がなくなったかな
これに生きようっていうそういうのがあることで
とても丁寧に暮らせるようになった気がします
25歳になってからわたしの現実の身体にたいして
絶望する機会がふえました
でもその度にそういうこと一切に諦めをつけるときなんだな
と思うようになりました
最高の白昼夢をみて、そして具現化していきます
秋葉原より愛をこめて
25歳になるということ
お久しぶりです。
ついにきてしまいました。
今月わたしは、25歳になります。
なりますね。
心もちは穏やか、大変穏やかです。
昨年は、強くなった年、でした。
精神的に。実際的に。
怖いものがなくなった。自分に自信がついた。
ネオマテリアルの生き方も、
巡り来る出会いの中で進化させることができました。
金銭不足
育ちの呪い
性的魅力不足
肉体的加齢
それらに立ち向かうのは
変わらず圧倒的愛と清潔感と瞬間的キザ
女の子の白昼夢になる、っていう気持ちです。
「概念になること」
『さよならインターネット』を読んで、
本当にそのとおりだな、と思いました。
30歳になったら、インターネットで白昼夢になっているように。
わたしのかわいい男の子たち、女の子たちがわたしのかわりに
画面のむこうの女の子たちをしあわせにするように。
そんな中で生まれたのが薫くんでした。
わたしのトランスメイル。自分の中でずっと育んできている
最高にハンサムな男の子。
きっと去年好きな人に振られていなかったら生まれてなかったかもしれない。
だからこそ、運気が最高だった去年、わたしから生まれた
もうひとりのわたしです。
半分妄想で生きることは、こわくない。
それを堂々と愛すること。
日常生活で隣人に笑いかけながら、なお白昼夢をみること。
秋葉原より愛をこめて。
最高の20代後半にしよう。