ネオ・マテリアルガールのすすめ

「どっちにもいける」いち女子のブログです。

愛についての詩論

 

水瓶座新月

明後日はリリスがおひつじ座に戻る。

 

リバースの時。

まさに死と再生の日だと思う。

 

昨日、他人の祭りを見てしまった。

不毛な時間だったと思う。

じゃあわたしはこれからもどんな祭りにしていきたいのか。

この切り取られた東京で。

 

愛とは実行だと思う。

めんどくさい、となるのならそれは愛ではない。

めんどくさいのは当たり前であって

それでもなお行動することが愛である。

 

以前

「結局ちはるさんの愛は、すべて自分の創作のためということですか」

と言われたことがある

 

普段から愛も使命も選択して実行しない彼になにがわかるんだ、

と心から激しい気持ちがわいたのを覚えている

 

わたしが男の子を嫌いな理由でもある

愛ができないくせに、黙れ、と思う

 

純粋さを好きになる

何かへの本気のまなざしを好きになる

だけど、それはもしかしたら

無責任さ無関心さの裏返しかもしれないのだと思う

頼りにはならない、子供だから

 

でもそんなものだとも思っている

なぜなら薫くんと綴が完成形だからである

純粋さも愛も兼ね備えた結晶

そのために生まれた家族だから

 

使命としての愛、それはヒロイズムとも重なる。

逆を言えばヒーローになるためには、ハンサムでいるためには

愛の実行は不可欠なのである

ハンサムサービス、の域

 

それに対してもまた

「そんな愛は偽物だ」

と言われたことがある

 

そうかな?と思う

たとえそこに自己愛が、自己体現の欲が混ざっていたとしても

結局実行しているかどうかじゃないか、と思う

 

省エネしている彼らにわかるわけがないことだ

 

優しさ、もつまるところ実行である

匂いや表情の機微で、それが純粋なものかどうかは感じとれる

 

純粋に実行している「小石川ちはる」のイメージを浮かべながら、

やさしさを実行しているのである

純粋なものだけを思考しながら行われる行動は

やさしさそのものなんじゃないかと思う

 

自己というのはすべてである

陰陽すべてを持っている

だから従来から「優しい人」なんてことはない

選択でしかない

あるものを使うのか、使わないのか、の話

 

何を愛しているか何で頭の中を満たしていくか

現実はただの事象であって

選択した解釈のみがその行動を選ぶ理由となる

態、それもまた行動の一種である

 

結局のところ、しっかり一球一球打っていくことと思う

愛の積み重ね、おざなりにしてしまわないこと

手を抜かないこと

 

すべてに疲れたら

こんな風に別の側面を出す

たくさん叫んでワーワーと

それで社会からもすこし離れよう

 

他人は永遠に他人である

無理解への冷たくて悲しい諦めではなくて

それでも打席にたつ自己への陶酔と

懸命たる努力で察知して

愛するひとたちを可能なかぎり愛していきたい

 

愛しているかすら、わからなくなっている

今みたいなときは

やっぱりすこし離れて

快となるものだけで頭の中を満たそう

そうしたのち、ゆっくり目を開けよう